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飯野陣屋(いいのじんや)
飯野陣屋(千葉県富津市)は保科正貞によって築かれた上総国飯野藩の陣屋です。慶安元年(1648)に正貞が加増を受け、1万7千石の大名になったため陣屋を構えました。保科氏は甲斐武田氏、次いで徳川氏に仕え譜代大名となりました。その後、正之は会津に移りますが、飯野藩は会津保科家を本家とし、幕末まで分家として存続、陣屋も維持されました。
慶応2年(1866)、藩主正益(まさあり)は幕府若年寄になり、第二次長州戦争を指揮しましたが、明治維新を迎えるに至り、版籍奉還を受けて一時的に飯野藩は飯野県の県庁となるも、明治4年11月に廃庁となりました。
飯野陣屋は富津古墳群の中に築かれており、周囲にはいくつかの古墳が存在します。さらに陣屋内には前方後円墳である三条塚古墳が残っていて、その麓には藩校「明親館」が置かれていました。
陣屋の構造は城郭構えになっていて、横矢が掛かる張り出しを設け、周囲には土塁と水堀を巡らせています。本丸から三の丸の広さは東西430m、南北290mに及び、いまに残る見事な水堀は「飯野陣屋濠跡」として、千葉県の指定史跡となっています。
ご城印デザインの説明
飯野陣屋は、敦賀陣屋(越前国)、徳山陣屋(周防国)とともに「日本三陣屋」に数えられています。今に残る見事な水堀は、まさに飯野陣屋のシンボルであるため、飯野陣屋絵図の水堀を強調して浮かび上がらせ、御城印デザインのモチーフにしました。
さらに保科氏の家紋である「並九曜」を配置しました。明治維新後、そのまま飯野の地に残り帰農した家臣も多く、いまでも城下町の趣が残っています。
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■ 千葉ポートタワー
■ まるごとしすい
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CUT STUDIO BEATLE
富津市下飯野249-4 TEL0439-87-3870
営業時間9:00~19:00
定休日 毎週月曜日/第2・3月火連休
佐貫城(さぬきじょう)
佐貫城は染川とその支流の北上川に囲まれた丘陵に築かれました。16世紀前半には、上総武田氏の拠点の一つだったと考えられています。永正4年 (1507年)の佐貫鶴峰八幡神社再興棟札には、大旦那として武田氏の名が書かれていることからも、武田氏と佐貫の関係が指摘されています。
その後、武田氏の内紛に介入した里見氏と小田原北条氏の争いがおき、佐貫城も両勢力の戦いの舞台になりました。天文14年 (1545年)頃には里見氏の城となり、当主である義堯が居城としていましたが、 北条氏が佐貫城を囲み、 里見方は北条氏が囲みを解くまでの1ヶ月近くを龍城戦で凌いだといいます。しかし、天文年間の終わり頃にはついに佐貫城が落とされ、義堯は久留里城に移ったとされています。
永禄6年(1563年)には北条氏が擁立した古河公方足利義氏が佐貫城に入っていることからも、北条氏がいかに佐貫城を重要視していたかがわかります。この後、里見氏と北条氏が江戸湾を挟んで佐貫城を巡り熾烈な戦いを繰り広げます。その過程で佐貫城は再び里見氏の城となり、里見氏の本拠が岡本城(南房総市)に移ると佐貫城は里見方の一拠点として存続していきました。
天正18年(1590年)の小田原合戦以降、関東に徳川家康が入封すると、徳川譜代の内藤家長が入城しました。その後は松平氏の時代や天領になった時期を経て、阿部氏が入ります。
宝永7年(1710年)に入封した阿部氏は、藩校の誠道館の設立や、砲台を築いて海防強化に努めました。そして、多くの幕府関係の儀式に参加し、譜代大名として明治まで存続しました。
ご城印デザインの説明
上総武田氏、里見氏、小田原北条氏、足利義氏、そして、近世初頭には徳川譜代の内藤氏が入るなど、多彩な歴史に彩られた佐貫城。それらの歴史がいかに佐貫城が重要だったかを物語っています。御城印には武田氏「四つ菱」、足利氏と里見氏の「二つ引両」、北条氏の家紋「三つ鱗」をそれぞれ配置しました。
佐貰城は天正18年(1590年)に内藤氏が入って以来、松平氏、阿部氏と城主が変わり、現在残る遺構は近世に改修されたものですが、中世の佐貫城が基本的には踏襲されたと考えられます。本丸から二の丸へ続く丘陵が近世では佐貫城の中心だったと思われますが、中世においてもこのエリアが城の中心だったと思われます。中世から近世へと上書きされながら存続した佐貫城の御城印は江戸時代に描かれた絵図をモチーフにするとともに、佐貫藩を再立藩し、江戸時代を通して存続させた阿部氏の家紋「丸に違い鷹の羽」 をデザインしました。
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有限会社 宮醤油店
千葉県富津市佐貫247 TEL0439-66-0003
■ まるごとしすい
造海城(つくろうみじょう)
造海城は浦賀水道に面し、白狐川の河口を見下ろす丘陵の先端に築かれました。目の前には東京湾が広がり、対岸わずか12km先に三浦半島があり、戦国期には北条水軍の拠点であった浦賀城(横須賀市)を正面に見ることができます。
「造海(つくろうみ)」という名は、中世の郷名に由来し、「つくろふミの城」として中世文書等に登場しますが、「百首の要害」「百首の湊」としても度々散見するため、別名「百首城」とも呼ばれています。
築城時期などの詳細は不明ですが、真里谷武田氏が上総国に勢力を広げていく過程の中で城として取り立てられたと思われます。その後、里見氏の内紛やそれを取り巻く戦国期の様々な勢力争いが起きると、海上の重要拠点として機能し、真里谷武田氏没後の後は里見氏の城として、里見家臣である正木氏がこの地に入り、江戸湾を挟んで北条氏と繰り広げた抗争の舞台となったと考えられます。
ご城印デザインの説明
江戸湾を臨む好立地に築かれた造海城は、いつの時代も重要な海防拠点でした。幕末には異国船への備えのため、造海城の曲輪などを利用して、竹ヶ岡砲台が築かれました。江戸時代に書かれた砲台の絵図をモチーフに、要害である造海城の断崖と地形を描きました。
造海城を拠点に、江戸湾沿岸部をめぐる戦国時代の戦いに登場する正木氏「三つ引両」、里見氏「二つ引両」というそれぞれの家紋を配置しました。
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清藍荘
富津市萩生160 TEL0439-69-8638
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栄寿司
富津市竹岡4402-2
TEL0439-67-8145(定休日 毎週水曜日)
金谷城(かなやじょう)
金谷城は鋸山から北に伸びる丘陵に築かれました。眼前には浦賀水道が広がり、さらには上総国と安房国の 境に当たる要衝の地です。東京湾を挟んで、三浦半島を指呼の距離に望むことができ、金谷城は諸勢力の水軍拠点の海城として使用されていたと推察されます。
築城主や築城年代は不明ですが、天文年間(1532年~1555年)初頭の段階では、里見実発の居城であったと考えられています。
史料上の初見は、天文22年(1553年)の文書で、それによると里見氏の庇護を受けていた妙本寺(鋸南町)の住持日我が戦乱から逃れるために、金谷城に経典などを運び込んで避難するも戦火で焼失したといいます。里見氏の庇護する妙本寺の住持が金谷城に避難していることから、金谷城が当時、里見方の城だったことがわかります。
その後、金谷城は内房正木氏の管理下に隧かれたと考えられます。正木氏は小田原北条氏に属していた時期もあり、その際は金谷城も北条方の城となりました。詳細は不明ですが、正木氏が再度里見氏に属すようになると、金谷城は里見方の城として機能したと思われます。
佐貫城、造海城、勝山城が里見氏の拠点として整備されていくと、金谷城は造海城の支城として連携し存続していったと推測できます。
現在、城址にはスポーツセンターが建ち、当時の城の姿は失われているものの、その立地から戦国期には里見氏、小田原北条氏の紛争の舞台であったことが見て取れます。
ご城印デザインの説明
金谷城の御城印は、 この地域のシンボルである鋸山をモチーフにしました。
金谷城は開発の際に発掘調査が行われ、たくさんの遺構と遺物が検出されています。調査によると、中心になる時期は16世紀前半から中頃と考えられていて、礎石や掘立柱建物が数棟見つかっています。切石を積んだ石積や、岩盤を削って造られた石塁などが見つかっています。 虎口は岩盤を削り精巧に造られ、 検出された柱穴から四脚門を伴った虎口だともいわれています。それらにより、城主や代官が常駐していた城の可能性も指摘されています。
御城印には検出された石積みや虎口をデザインしました。
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公益財団法人 鋸山美術館
千葉県富津市金谷2146-1 TEL0439-69-8111